もうずっと前から消えてしまいたかった。
とある光景を目にしてから狂っていった母からの暴力を受けて、それが『虐待』と呼ばれるものだったなんて知らなかった頃の話。
風呂に張った水に顔を付けられて沈められかけた事もある。床に押し倒されて首を絞められたこともある。泣きながら、笑いながら、呼吸を止めようとした手は震えていた。
やめて。
たった三文字の言葉を吐きだす声すら失った自分は実母の玩具で、慰めの道具だった。
そう告げた透明人間は、獣人である恋人の反応を窺う。
獣人である男は何も言わず、透明人間の肩を左手で抱き寄せ右手でその水色の髪の毛をくしゃくしゃと撫でまわす。
当時の年齢は十九、もうすぐ誕生日を迎えて二十歳になる年下の白髪の狼男は年上の恋人の透明人間をそれでも支えていた。
何気ない接触すら凄く怖くて、クローゼットの中に逃げ込んだ記憶が蘇って透明人間の目からは涙が零れた。
これが今より数年前の話。
二人が同棲を始める直前の『対話』だった。
あれから、二人は
ふぁ……欠伸と共に寝室から出てきたのは水色の髪を持つ透明人間、レヴィ。
首回りに余裕のあるシャツと長袖カーディガンを羽織った姿は気温が落ち着かない季節には丁度いい格好だ。その片手にはほぼ恋人との連絡用としてでしか使用していない携帯が握られている。
時間は朝八時を少し過ぎた頃。
フリーランスのイラストレーターである彼は壁に掛けられた時計で時間を確認し、一度頷く。丁度隣人が部屋を出ていく物音が聞こえ、改めて『朝』なのだと認識した。
少々時間は早いかとも思ったが、ノートパソコンを置いたローテーブルの前に座って今日の分の仕事のチェックをする。
コーヒーメーカーで作ったばかりのコーヒーをマグカップに入れ、眠気覚ましにブラックの状態で飲みながら画面へと視線を走らせた。
大体固定客や出版社の担当からのメールに関してはフォルダ分けしてあるため、「進捗はどうですか」と遠回しに伺ってくる文面に簡単な返事を打って返信するのが仕事始まり。
携帯の方が何かと楽だと良く担当に口にされるが、逆に時間に縛られたくなくて彼は相変わらずパソコン使用の作業を貫く。
顔を上げれば水色の髪の毛が揺れる。
左目を覆っていた眼帯を外し、赤と金という色違いの両目を晒した状態で仕事用のスケッチブックを取り出しそこに鉛筆の線を走らせた。全体像を描くだけなので本書きではない。
最近のクリエーター市場ではデジタルがどうしても目立つが、彼の画材は相変わらずアナログのものばかり。それでも仕事の依頼上、どうしてもアナログオンリーでは限界があり、多少の修正にデジタルを使用する事もある。
二人掛け用のソファーを背に当て、ゆるく曲げた脚の上にスケッチブックを乗せて描くスタイルが彼は好きだった。
ファッションモデルをしている同居人もとい恋人である白髪の狼男――エアリルは、日が昇る前に忙しなく出掛けて行ったため部屋には一人。
集中する為に音楽も流さず、鉛筆を走らせる音がむしろBGM。
時折鳥が囀る音が聞こえる。
恋人と同棲する際に高層マンションの端部屋を選んだため、隣人が仕事に出掛けて行けば彼にとって広めのリビングはまさに個室の楽園であった。
分担制の家事のお陰で一人暮らしの時よりも部屋も綺麗で、食事も定期的に摂れるようになったのも変化かもしれない。
どうしても一人暮らしの場合食事が手抜きになり、仕事に集中しすぎる癖がある事を彼は自覚していた。
不意に、アドレス登録数の少ない携帯の音が鳴る。
画面に触れてポップアップを確認すれば、そこには同居人の名前と共に「昼飯は冷蔵庫の中」の一文だけ流れては数秒後に消えた。
ちゃんとメールを見ようと携帯に両手を添えてメール画面に移行すると、先ほどの一文の下にもう少し文章が続いていた。
『朝飯食べてないなら冷蔵庫上段にスープ作っておいたからそれ食って。冷えても食べられるスープだから温めなくていい』
その文字を見た瞬間、腹部で音が鳴る。
身体は正直だなと彼はがくりと頭を垂れ下げながらもスケッチブックを閉じ、両手を組んで背を伸ばした。
リビングキッチンのため、冷蔵庫まで距離は僅か。
常に掃除しておかないと見た目的によろしくないとされるキッチンとリビングが一体型の部屋だが、元々二人共散らかさない方だし、更に言えば獣人の方なんて家族によってきちんと躾を受けてきているため急な客人が来ても問題なく出迎えることが出来る。
冷蔵庫を指示通り開いてみると上段にかぼちゃスープが入った小型鍋を発見する。
下段にはメール通りラップに包まれたサンドウィッチも用意されていた。
日が昇る前に出て行ったのに関わらず律義にも食事を用意する恋人の手際の良さは彼の兄弟――特に青い髪の毛を持つ三男譲りだろうか。
クロワッサンが一つ残っているのを確認すると、それを皿に乗せてレンジで数秒だけ温める。
カップにかぼちゃのそれを移して少々格好は悪いものの即片付けられるようキッチンで立食。
冷えたカボチャスープにほんのり温かいクロワッサンが丁度口内で混じり合って軽食として腹が満足するのを覚えた。
黙々と食事を進ませながら壁に掛けたカレンダーをレヴィは見やる。
互いの予定を書き込んだカレンダーの今日の日付には「朝4時〜15時」と書かれていた。
その隣にはホワイトボードが掛けられており、食事、洗濯、掃除など日替わり当番表が作成されている。マグネットシートを使ったそれを確認すると今日の食事担当は確かに「エアリル」となっており、レヴィはしまったと肩を落とした。
せめて恋人の朝が早い日が事前に分かっているのであれば入れ替えておけばよかったと心底彼は後悔する。いくら相手が成人した男性とはいえ、年上として気が回らなかった点でレヴィはまだまだ同棲相手に気を使いきれていないと感じてしまう。
反面、良く出来た恋人に育ってくれたものだと、感慨深ささえ覚えた。
恋人であるエアリルと出逢った当時の年齢は九歳。
迷子になった狼少年を見つけて送り届けたのが二人の出会い。既にレヴィは百に近い年齢を生きていて、まさかそんな子供に本気の告白をされるなんて思ってやしなかった。
それが今じゃどうだ。
色々波乱万丈な十数年だったけれど、子供から大人になった彼と同棲にまで至ってしまった。
なんとなく指先をカレンダーにあてる。
モデルとしての彼の予定は変則的で、早朝から始まるかと思えば深夜から出かけることだってある。レヴィはレヴィで個展を開かせてもらえるレベルの腕はあっても、フリーランス。支援者はいても、属していない自由業を長年続けている生活はいつ暴落しても可笑しくない。
だからこそ、いつだって本気で描く。
自分だけの絵を、自分にしか描けない――世界を。
――また、放置していた携帯から鳴る音。
食べ終えた食器をさっと洗い、水切り場へと置いてから携帯を覗けばそこには「今日は早めに帰れるからレヴィの好きな物作る。買い物して帰るからリクエスト受付中」と文面が載っていて、レヴィは額に手を当てながら本当に自分は嫁を貰ったんじゃないかと錯覚を覚えた。
+++++
「『何でもいい』は反則」
夕方、日が落ちる手前の時間帯に帰ってきた恋人が開口一番に言った言葉。
両手に買い物袋を持ったまま少し呆れたような声で口にした彼はレヴィにその荷物を預けた後、ブーツの紐を緩ませて家へと上がる。
レヴィの隣を通り抜ける際に香る化粧の匂い。
ワックス、香水。
僅かに持ち上がっている前髪。
度の入っていない伊達眼鏡。
モデルとして活躍している彼の職業を如実に示す香りと変化だった。
身長は同棲前に抜かれてしまって、更に上に伸びて今じゃその差十センチほど。
「今日測ったら百八十センチ超えてた!」とキラキラと眩しい笑顔で報告してきた彼に抱きつかれた時、レヴィは大きく弓なりに背を反らしたのを覚えている。
ああ、昔は彼は小さくて自分の方が見下げなければいけなかったのにと、レヴィはたまに懐かしさに浸ってしまう。
「レヴィ」
呼ばれてはっと意識を戻すと彼はキッチンへと移動していて、荷物を預かっていたレヴィも早足で其処へと足を運ぶ――が。
「言うの遅くなったけど、ただいま」
腰に回される腕、引き寄せられる身体。
降ってくるキスは両方の瞼に一回ずつ。擽ったい触れ合いに思わずレヴィの口に笑みが浮かんで、けれども避ける事なんて絶対にありえないし、したくない。
エアリルはレヴィの手から素早く買い物袋を取り上げ、カウンターへと置く。
次いで距離が開いた状態で両手を身体の脇程度広げ、少しだけ待つ動作をした。
レヴィの身体はまるで吸い込まれるように自然と寄っていく。
適度に肉付きの良い恋人の腰に両腕を回し背中で組み合わせる。それからことんっと肩に額を当ててからほんの僅か爪先を伸ばし頬へとキスを贈る。
オッドアイの瞳は晒せても、喉に巻いた包帯はそう簡単には解けない深い傷のままレヴィの心に落ちているが、それでも声を出せない彼なりの「ただいま」の表現方法。
そして声を出せないレヴィに『声』をくれた恋人はこう言うのだ。
「おかえり」
言うと同時に返される頬へのキスは愛しさを募らせる。
二人はこれで良かった。傍目から見て声を出しているのは一人だとしても、気持ちが二人分で別れているのであれば、同じ声色でも二人の挨拶になるのだと通じ合っているのだから。
+++++
「ほら、水」
結局エアリルの手料理――パエリアをご馳走になる形で食事を終えれば、彼は空になった皿を運び、戻ってきた時には氷の入ったグラスをソファーへ座っていたレヴィに差し出した。
頬にぴとっと当てられたそれにびくりと身体を跳ねさせたけれど、素直に受け取っては思わず水の表面を見る。透明のそれに浮く氷。いずれ溶けて消える、冷たい固形物。
レヴィは一度息を吐き出すが、エアリルはその水色の髪をぐしゃりと撫でた。
「継続して薬は飲む事。特に仕事期間中は過度にストレス掛かるんだから、薬物療法は必要だろ」
サプリケースをテーブルに置き、本日分の薬がまだ消化されていない事を二人で確認。
「これでも前より減ったんだから」と言い置いてエアリルはキッチンへと入っていった。手早く皿を洗う音が聞こえる。自動食洗機があるのだからそっちを使っても良いのだが、エアリルは昔からの癖もあり手で洗う方が良いという。やっぱり汚れの落ち方が違うと口にされれば、閉口するしかなかった。
銀シートから数種類の薬を押し出し手のひらに乗せて一気に口内に含む。
間を置かずに水の入ったグラスに唇を押し当ててレヴィは一気に薬を胃へと落とした。
喉を鳴らして飲む水は冷たくて、心地よい。
「レヴィ、俺今日朝早かったからちょっと早いけど寝ていい? 今すぐ風呂に行きたい気持ちもあるんだけど、睡魔の方からお誘いが来てる……」
時刻は午後八時半ほど。
無事皿を洗い終えたエアリルはタオルで濡れた手を拭きながら指先を自室へと向けていた。
関係は恋人で同棲しているとはいえ各々別室を持っているのだから、レヴィにそれを止める権利はない。特にカレンダーには仕事は朝四時と明記されていたが実際は食事作成という手間も掛けているので起きたのは遅くても三時――もはや朝ではなく深夜帯だったであろうことは容易に予測出来た。
片手を軽く振って了解の意思を示せば、エアリルはふぁあと大きな欠伸を漏らしながら部屋へと入っていった。
一人きりではない空間だけど、一人になってしまった部屋の中。
扉が閉まった後は僅かに物音がしてからシン、と空気が震えるのを止めた。
レヴィはそれなら自分は静かに仕事の続きでもやろうかと気持ちを固め、飲み干したばかりのグラスを指先でしっかり持ちながら立ち上がる。
途中、改めて予定を確認しておこうとカレンダーに視線を向ける。昼に自分の仕事の締め切りを書き足したくらいで特に変化はない。
明日はエアリルのオフ日だし、寝坊もさせてあげたいと彼は考えつつ真横のホワイトボードへと視軸を変えた。
――が、そこで思わず手の力が抜けそうになる。
グラスを落としかけ反射的に両手に力を込めて事なきを得るが、それをシンクへと置いた後、もう一度目の錯覚ではないかと確認する為にホワイトボードを凝視する。
だが事実は変わらない。
レヴィが新しく受注した仕事の締め切りに合わせて家事当番が入れ替えられている。期間ぎりぎりまで集中してしまうのは悪い癖だと分かっているけれど、家事は分担制だと決めていたはずなのに、締切日間近に並ぶマグネットシートはエアリルの比率が高い。
壁にこつんっと額を押し当てて項垂れる。
ああ、負けてるなだなんて……心の中で年上年下ってなんだっけとレヴィは考えを巡らせた。エアリル自身だって変則的な仕事をしていて負担も大きい癖にこういう何気ない部分でサポートしてくれるし、抱えている病に対しても向き合ってくれているし、自分が『無意識の発作』を――自傷をしそうになったら全力で止めてくれる。
相手は五分の一程度しか生きていないまだ若者なのに縛りすぎていないかとマイナス思考に落ちそうになるけれど、ぐっと拳を作って今しがたエアリルが入っていった寝室の扉を開いた。
中は薄暗く、ベッドの上では既に深い場所まで落ちてしまったであろう恋人の姿がある。
ベッドの脇に腰を下ろし、そっと白い前髪を指先で撫でて持ち上げる。
伏せられた瞼の下には赤い瞳。
小さかった頃から変わらない――真っ直ぐな赤色が存在しているのだ。
―― ありがとう。
声には出来ない。
あのマグネットシートを元に戻してしまえば好意を踏みにじる事になるが故に、優しいお礼の言葉を唇の動きに乗せた。
耳がひくりと動くような気配。起こしてしまったかと暫し様子を見ていれば、彼はへらりとどこか楽しそうに笑う。
人狼だから聴覚が鋭敏なのは知っての通り。さすがに無音には反応出来ないはずだと分かっているのだけれど。
腰ほどの身長だった君がずっと追いかけてきてくれた事実。
大きくなった君が今もこうやって傍にいて支えてくれている事実。
その幸せを心底噛みしめ、レヴィは夢を見て微笑む相手につられるように目元を細めて唇にそっと秘密のキスを一回落とした。
…Fin...
>> 白水。
十何年ぶりの白水ですよ!
相変わらず台詞なんてないノンバーバルコミュニケーション(言葉以外の情報をもとに相手の心情を読み取るコミュニケーション)カップルが好き過ぎた。
最初リアル時間軸で書こうかと迷いましたが止めました。子供組の「そして世界はまだ巡る」が2、3年後くらいなので同じくらいかなっと。
大体22、3歳くらいですね。
無事家族から自立して恋人と同棲し、相互理解を極めつつ甘い関係でいるようです。
2019.09.26