息吹・吐息
【SIDE:ベラ】
頭が痛むと思った時には遅すぎた。
唐突に起こった発作に、鍵盤に置いていた指がずれる。ぐらりと世界が揺れて、三半規管の調子が狂って耳鳴りが脳髄を侵していく。
座っていたはずの身体が後方へと倒れ行く事すら止められず、そのまま背中を殴打。せめてもの抵抗に頭を持ち上げて直接的な打撃を避けたのは良いが、それでもうなじと丁度その部分で括ってしまっている髪の毛の束が肌を押して痛みが増した。
ざらりと地面を擦る髪の毛の不快な音が妙に鮮明に届いて、舌打ちを一回響かせる。
宇宙の空を見上げることも出来ない壊れた眼球。
けれども全身を纏う星々の気配が己が仰向けに倒れ込んでしまった事を教えてくれる。
優先事項は気道の確保。
ループタイを緩め、その下のシャツに指を引っ掛けて二つほどボタンを外せば僅かに呼吸が楽になった。
だが上手く行ったのはそこまで。徐々にレベルを増していく症状によって指先が震え、今度はズボンを緩めようとしてベルトが外せなくなった。
普通はボタンを外す方が難しいだろうがと自嘲しながら、優先順位的には正しいのだと自分を心中で褒めた。
仕方がない、と震える手先でシャツを掴み無理やり引っ張り上げて抜く。そうすれば僅かながら空間が確保できて腹を圧迫する感覚も薄くなった。
グローブは外さない。
爪が露出すればそれだけ無意識に物を、肌を引っ掻き傷を増やすからだ。実際、全身を掻きむしるような傷だけでは足りず、髪を引っ掴み抜毛を起こした際には母たるフォトンが悲しんだ。
髪などまた生えるだろうと諭しても、『それに至った経緯』に対して彼女は胸を痛めるものだから帽子を被っていた時期もあったことを思い出す。
持病――絶対音感と対比した超感覚。
脳に入ってくる情報量に耐えられないが故に起こる症候性部分てんかんの単純部分発作にも似た症状。冷汗が肌に浮き上がり、気持ち悪さを覚える。
発作症状レベルの定義。
己で一から五まで設定し、一が軽度で五は重度。
万が一、一人で過ごしていた際に四から先の発作を起こしてしまった際には誰でもいいから呼び付けるようにと母と約束した事を今も覚えている。
四から先――……己の意思で動く事が困難を極めた場合の約束だが、正直な話その状態では誰も呼び付けられないだろうとオレは笑ってしまったが。
幸いにも成長した今のオレは五に至る事は殆どないが、幼き頃はよくレベル五まで達して瞼の裏に幻覚・幻聴・吐き戻しを起こしてベッドの中で眠りにつくことが多かった。
本日はレベル三程度かと頭の隅で考える。
ならば横になって休んでいればすぐに症状は治まるものだと判断するが――。
―― 唐突に訪れる二度目の頭痛。
重なる手先。
僅かな重みを乗せたその行動は今のオレにはムカつくほどに適しており、それ故に拒めない。
頭部の丁度上部、そこに膝をつく形で覗き込んでくる影。
両手を顔の真横に縫い付けられるような格好になってオレは僅かに痙攣し、収縮した血管によって冷えた肌と相手との体温の差を思い知る。
一度目が発作による頭痛ならば、二度目は訪問者からの行動へのもの。
布地を掠る髪の毛の音は『長さ』を持つ。短髪ではなく長髪特有の音。頭が音響の世界のヘルツを刻む。この音の高さは――と。
触れられた唇からは淡い熱。
息吹。
そう呼ばれるそれは互いの間に存在し、そして宇宙へと四散していくが吹き込まれた息吹は気道を通り肺へと到達するだろう。頭の中で群れを成していたまるで魚群のような音が分けられて、症状が和らいでいく。
この発作の世界がお前さまには分からないだろうに、それに対して動く気配が取る行動がこれかと唇を持ち上げる事すら困難な状態で心の中で笑ってしまった。
もう一度と下がってきた影は早鳴りと悲しい音を心臓に宿す男のもの。
吹き込みによって身体が軽くなる事が事実だからこそ、抵抗を封じられたオレは息を逃すまいと何も言葉を吐き出さなかった。
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【SIDE:ノーヴァ】
彼が住まう星との距離は近くて遠い。
時々流れ星のように微かなピアノ音が私が住まう場所に届くけれども、それを音楽と評するにはあまりにも欠片過ぎた。音符として拾い上げ、楽譜に縫い付けてみようと試みる事、何百……いや、千単位。
捨ててしまおうかと書きかけの楽譜を手にしてはどうしても星屑には出来なくて、フォルダ分けすることも同じ数だけ。
溜まっていく欠損楽譜。
ここをこう繋いで、こう流して――なんて、勝手にアレンジを加えてもそれは私のカバー曲であり、もはや別物になるからこそ完成品は一つとして有り得なかった。
いや……過去に一曲だけ作ったことがある。
彼が絶対音感を利用したピアノの叩き方を覚え、その音が流暢になった頃の話だ。
流れ着いてきた音楽を拾い上げて、縫い付けて、空白の時間を己の想像力で補った。彼ならばこうやって鍵盤を叩くだろう。彼ならきっと……。
そうやって作り上げた楽曲は私にとってとても魅力的な楽譜に見えた。いつもと変わらぬ五線譜に乗せた音符達がまるで踊っているかのような感覚さえ覚えた。
だが、それ程までに高揚した気持ちは次の瞬間崩れ落ちる。
当然の話だった。
楽譜を置いてピアノの前に座り、鍵盤を叩いて産み出した音楽達は『彼の音楽』ではなかった。しかし『私の音楽』とも言えないそれは光を喪う。
二人同意した音楽ではないそれは今まで作った曲の中で一番の【駄作】だったのだ。
おこがましいと素直に自分をなじった。
妄想の中とはいえ、美しい音楽を奏でる彼を汚したような気分でもあった。盲目のピアニストと呼ばれる彼を私自身で侵した気分でもあった。
……それでも欠陥楽譜を捨てられないのは未練だろうか。
丁度その時遊びに来た創世神であるMZDが私の懺悔を聞いてくれた。膝をついて両手を組み合わせ、涙を零しながらも私は罪を告白した。
「そんなもん罪でもなんでもねえよ」と神自ら私の頭を撫でてくれたが、幼き日の私にはそれを素直に受け入れられる心の容量はなかった。
彼は私と比較されることを心から嫌う。
しかし反面、その表情に張り付けたのは皮肉さ。
南十字星と偽十字星。
『騙されたお前さまが悪いのさ』と言い始めたのは間違いなく彼の心の壁だった。
―― それは今も変わらず。
彼が倒れるのを見ていた。
駆けつければ星の地面に背中を殴打することも、彼自身が発作へ対処することもしなくて済んだかもしれない一連の流れを私は宇宙の空から見ていた。
両手が伸ばせない。星色のアームカバーを纏った私の掌が拳を作る。
彼が持病の発作を起こしていることは間違いない。
持病――絶対音感と対比した超感覚。
脳に入ってくる情報量に耐えられないが故に起こる症候性部分てんかんの単純部分発作にも似た症状。冷汗が肌に浮き上がり彼を冷やす。両目を覆っている布を除いても、唇の色が青みを帯びて血液の流れが可笑しくなっていることはすぐに判断出来た。
気道を確保し、深呼吸を繰り返す彼の傍にゆっくりと降りると同時にグローブを外さなかった彼の手に己の手を重ね、彼の顔の横に縫い付けた。
発作の進行により彼が自傷しないための行為だ。
重度症状が出た際には顔を掻きむしり、髪を抜き、喉を引っ掻いては喚いていた彼を思い出す。
そして万が一彼の傍に人がいれば無自覚とはいえ傷をつけることもある。だからこそまずは手を縫い付けて、私は唇を下げた。
吐息。
私の星の息吹を分け与える行動に彼は何を感じているのだろう。重ね合わせた手のひらは思っていた以上に冷たい。
目の前で上下に開く唇が何かを発しようとしたが、言葉はない。
けれども触れる二度目の口付けは僅かに赤みを帯びていたので、多分これが最適解だったのだと信じることにした。
…Fin...
>> ノヴァベラ。
二部構成。台詞無し。
ベラの発作時とノーヴァの行動。(発作は捏造注意)
ここの二人は言葉を交わさなくても良いと思っている。
尚、ノーヴァ版の以下表現の差は拘り。
欠損楽譜=つぎはぎ音楽
欠陥楽譜=ノーヴァの罪
2019.08.20