気泡





 溺れる魚のよう。
 魚が溺れるとはなんとも言い得て妙な話ではあるが、酸素が足りないと実際魚とて死に至る。特に囲われた魚には定期的な酸素を送り込まねば……命とは儚い。


「ド、ミの和音」


 発作の最中、口にする。
 頭痛が酷くて唇を開く事すら重くて、けれどもピアノを弾くための両手は持ち上がらない。地面に打ち付けた頭の方は大分痛みは引き、意識の方も安定を極めてきている。だが問題は落ち着いてきたが故の症状。
 復帰する際の副作用の方だ。


「三連符のf(フォルテ)、ラララの並び。高さは――」


 はく……と淡い息を吐き出すように音を口にして、冷たい宇宙の海へと放出する泡沫。本物の海の中であればそれは美しい気泡を描くのだろうが、オレの口からはそんなものは生まれない。
 両手を脇に下ろして何度か指先を折り曲げるために力を込めるが、痙攣はまだ収まっていなかった。


 そんなオレの傍に存在するのは南十字星。
 俺が偽十字と呼ばれる所以の元。長く伸びた金髪の美しい聖人。奏でる指先は繊細な音楽を表現し、奏者を魅了してやまない。だがその本物さまが今必死になってオレの言葉を聞き逃すまいと聴力を星に張っているのが解る。集中力の増加。お前さまは五線譜の上にオレの言葉を乗せて何を思う。


「キーが……ない。限界」


 ぴくりと本物さまが指先を止める。
 オレは唇を噛みしめて右手を持ち上げ己の額へと落とした。そう、落とした。乗せるのではなく……重力に従った形で。


「代理、空白の三秒――続いてレとファの#は……」
「ベラ」
「来たか、調律師」
「レベル三だな」


 空間が歪んで飛んでくる幼馴染の声。
 星々の空から落ちてくるその音程に安堵した息を吐き出せば、本物さまが記録していた楽譜をくしゃっと僅かに握り込む音がした。
 そして緩やかに頬に触れられる手。
 指は顎に引っかかり、手のひらが優しく顔の輪郭に沿うように包み込まれる。そして最後に額にぶつかる熱。己より高めのそれは額。


 こつん、と当たるそこから送られるのは『土産』。
 流れ込む映像は瞼の裏に映り込み、投影される。
 人々が歩いている景色。楽し気に会話している様子からしてそこは地球の都会のようだ。同じような服装――学生服を着て手に飲み物を持ちながら友と呼ばれるものと喋り歩く様子。他愛のない光景であった。
 空にはカラス。夕暮れの色。青から橙へと変化する一瞬の時間。――たまに蝙蝠が紛れ込んでいて人には届きにくい音波を放っている。
 見えぬオレが『見える景色』に口を持ち上げ、手先を確認すると痙攣は収まっており身体は充分軽かった。呼吸も通常通りの深さを得て、安定したことを知る。


「……よし、起きる」
「無理はするな」


 宣言通り上体を起こせば、血液が下がる瞬間のくらみだけが襲ってきたがそれは精神的なものではなく一時的な身体的反応。十秒も静かにしていればすぐにそれは引き、オレは顔を持ち上げ転記していた相手へと指さす。


「ノーヴァ、お前さまはその楽譜を破棄しろ」
「……」
「破棄しろ。それはもう『自然』の音じゃない」


 記憶の中の自然物の音。
 だが楽譜の限界を超えて伸びる鳥の囀りすら表現出来ぬ楽譜など未完成極まりない。
 分かっているだろう? と喉で笑いながらオレは諦めた本物さまから手に渡った楽譜を惜しげもなく破り捨てる。
 宇宙の塵へと至るそれをオレは目に見ることは出来ないが、可能な限り細かくちぎったそれを手先から流し捨てる行為は音楽家として正しいか、否か。
 引き千切る一瞬、皺の寄ったそこに指先が引っかかったことだけがオレにノーヴァの心境を伝えてくるが――オレにはそれを受け入れる事は出来ない。


「お前達はまるでピアノのようだ。調律しなければ音が狂っていく」
「ならば、狂わぬための調律師が必要だ」
「オレはお前のピアノ専属調律師ではあるけれど、お前自身の調律師じゃないぞ。『土産』だってその場しのぎの処置に過ぎないとお前だって判っているじゃないか。お前自身の調律の役割は誰なのか――ベラ、既に知ってるだろう」


 立ち上がろうとしたオレに肩を貸してくれる幼馴染である神、フィアレスは呆れた息を吐き出す。
 オレはその言葉を聞いて僅かに空白の時間を生み出すが、最終的には口に指先を添える。


 そうさ。
 知っていても突き放す。受け付けられなくて、心が反発する。ガリ、と一音。歯ぎしりの音の持ち主がオレ達の様子を見て悔しがるのが面白いのさ。
 調律しなければ狂っていく――まさにその言葉の通り。幼馴染さまよ、お前は適切に言葉を吐くようになったなと、心から褒めてやりたい。


 この宇宙の果て。
 互いに抱えている欲の差が心も身も焦がし触れ合うことを赦さない。
 息を吹きこまれる瞬間だけは何よりも安心して身を任せることが出来るが、吐き出す呼吸に言葉を乗せることは禁忌だとオレが定めた。口にする事で変わる関係性は容易ではあるが、今のオレには『言葉の先』を受け付けられない。


 狂いあった十字星二人。
 音響変化の発作に狂うオレ。
 そんなオレに狂う本物さま。
 オレ達二人を見守る神はやがて瞼を閉じる。


 「世界は広いが、オレの心は狭いと誰よりも知っているさ」


 本物さまに聞こえるようわざと幼馴染の神に答える。


 「相変わらずお前達は面倒くさいな」


 そう告げられればオレはカスタムピアノ前の椅子に腰かけ、蓋の上に肘を付いて顎を支えながらいつも通り皮肉を込めて嗤った。





…Fin...


>> ベラ+黒神とノーヴァ。

 「息吹・吐息」のその後。幼馴染の応急処置。
 三部作にしようか迷ったけど『その後』で。 
 ベラ自身が己の発作・感情過敏症など抱えている物の多さに押し潰されそうなのが判っているから、ノーヴァからの感情を受け止められない話とも。

2019.08.21

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