手掴みの狂気をあげよう。
 一握りの勇気に免じて。


 何も見ぬよう。
 何も話さぬよう。
 何も得ぬよう。
 全てを閉ざした君に。



+++++



 水の音が聞こえた。


「ッ……は……!」


 次に襲ってきたのは全身を濡らす大量の水達。
 浴びせられたそれは冷たく冷やされたもので、体温を急激に奪っていく。上半身は裸体。下半身にしても拷問の結果ぼろぼろになってしまったズボンがかろうじて肌を隠しているだけに過ぎない。
 ふわりと戻ってきた意識は瞼を開いた瞬間ぐらりとゆれる。
 痛い。
 頭が痛い。
 頭上に纏め上げられた手はずきずきと脳内を蝕むその痛覚を押さえ込むことも出来なかった。


 力がなくて倒れそうになる。
 しかし天井から吊るされ、手首を包み込む手錠がそれを許さない。だらりとされるがままに膝をついて耐えれば、かつ……と靴音が正面から響いた。
 先日強く叩かれた耳が熱を持つ。恐らく中の方まで腫れてしまったであろう耳はそれでも音を収集しようと動いた。


 伸びた髪が胸の方に垂れる。
 あの人と別れた時はまだ肩を擽る程度だったのに、と時間の経過を感じた。黒いそれは光の入ってこない部屋と同化してしまいそう。闇に慣れた目が侵入者を捕らえようと光を求める。


「こんにちは、生きていてなにより」


 銀の光。
 扉から自分を指しぬくかのように伸びてきた外の明かりに俺は顔を背ける。一気に光りを吸い込みすぎたためか、瞳孔が痛んだ。
 侵入者は脇に二人ほど従者を控えながら中に入ってくる。
 かつかつとわざとらしく靴音を立てながら俺に近づいてきた。石畳の上に鎮座した俺を見下げ、其れは肩を竦める。


「真実を教えて欲しい。それだけなんだ」


 俺の顎を捕まえ、強制的に相手の方に向けさせられる。
 筋が傷んでいるようで、痺れのような刺激が走った。反対側の指先が顎の方から首、そして鎖骨の方へと流れていく。敏感になった皮膚はそんな些細な刺激ですら過剰なほどの痛みを伝えてくる。赤く腫れた皮膚は膿んでいるだろう。まともな処置もされず放置されているのだから、もしかしたら骨も変形しているかもしれない。


 ぽたり。
 顎を伝い、床へと水が落ちていく。
 ふぅ、と侵入者が息を吹けば、更に体温を奪われた。


「君は自分で唇を縫い付けてしまったのかな?」
「……」
「『あの子』が本当に死んだなんて、誰も思っちゃいない」
「…………」
「大事な子供なんだ。大切に大切に育ててあげたのに、誰かが逃がしてしまったようなんだ」
「………………」
「折角帰って来たのにね……。なんて悪い子なんだろうと心から思う。だけどそんなことどうだっていいくらい、私にはあの子が必要なのに」
「っ、んぐ……!?」


 不意に口をこじ開けられ、指先をねじ込まれる。
 手袋を嵌めたその指は酷く口内の水気を奪い取り、そして布地特有の不味くざらりとした感触を舌に運んできた。舌で押し出そうとすれば逆に中へと突き動かされる。嘔吐感がじわりと胸の奥底から湧き上がってくるが、懸命に耐えた。


 出来るだけ進入されぬよう口を閉ざす。
 それがまるで指吸いの様で、気持ち悪い。


「何を耐える必要があるんだい?」
「……」
「一言、言ってしまえば楽だろうに」
「…………」
「私はね、ただ探しているんだよ。私の大事な愛人を殺した罪人を」


 牙をなぞられる。
 このまま力を込めれば指を噛み千切る程度のことは出来るだろうか。いや、それでもすぐに引き剥がされ、拷問が再開されるだけに違いない。
 ぽたり。
 つつーっと滴っていく液体が止まない。首を振って獣のように散らしてしまいたいのに、口の中に放り込まれた指が邪魔をする。


 やがて髪の毛がなぜられる感覚がした。
 わしゃわしゃとまるで愛玩動物にする、それのような。


「ああ、その目を見せてくれないか」


 唇から指が抜き取られ、両手で頬を包み込まれる。
 唾液を吸った手袋が最後に銀糸を伸ばすのが見えた。
 べたりと肌を覆う嫌な感触。
 望まれることが嫌で、ぎゅぅっと強く瞼を下ろした。次に続く言葉が予測出来る。だけど聞きたくない。
 両手が自由ならばこの耳を覆うことも、ちぎってしまうことも出来るのに。


 自虐を許さない枷が冷たく自分を束縛する。
 身体と共に心まで冷えてしまったのだろうか。小刻みに震える歯の音がする。振動するそれは骨を伝い、頭痛を更に酷くさせていく。


 唇が弧を描き、そして笑う。
 赤い瞳が俺の惨めな姿を映し出し、そして哀れんでいた。


「かわいそうに」


 顔に付いた内出血の上を唇が這う。
 割れたそこから厚みのある舌が這い出し、そして思う存分舐めあげた。首を振りそれから逃れようとするが、がっちり掴まれた顎は動かすことが出来ない。
 舌が瞼の方へと上がり、ぞわりと嫌悪感が生まれる。
 皮膚に細かい凹凸が出来たのが面白かったらしく、のどで笑う音がした。耳が痛い。じくじくと傷が悲鳴を上げる。興奮して血流が速まったのか、全身が痛みを訴え始めた。


 ぐっと息を飲み、一気に瞼を開く。
 一直線に憎しみを込めて睨みあげれば、相手は嬉しそうにその表情を綻ばせた。


「私はね、君のような黒髪碧眼がとても好きなんだ」


 刷り込みのように侵入者は言う。
 いや、俺を此処に放り込んだ張本人とでもいうべきか。この集落の長。純血種の狂気を一心に受け止めた狂人。
 皆知ってる。
 この人がおかしいことくらい。
 誰だって知ってる。
 この人の愛が正妻ではなく愛人にあったことくらい。


 だけどそんなことどうでもよかった。
 俺にはあの人がいればそれでよくて、あの人がいない今戸惑う理由も何もない。目の前の相手を噛み殺してしまってもきっと誰も止めないだろう。


 だけど。
 この人は。
 とても強くて。


「俺は……」


 あの人を閉じ込めた人。
 あの人を育んだ人。
 両手が自由ならば襲い掛かってしまいたい。牙を剥き、爪を立て、その純血の味を知ってしまいたい。


 微笑んでくるその顔が記憶の中の父親と被ってしまうことに自分の中の狂気を感じた。
 語り掛けてくるその唇が記憶の中のあの人と被ってしまうことに自分の中が驚喜していた。


 唇を縫いつけたのは自分。
 耳を塞いだのも自分。
 一握りの勇気。
 誰よりも大切なあの人を護りたいと願ったことを俺は決して忘れない。


「俺は……貴方のような純血種は、嫌いです、よッ……!」


 吐き捨てる。
 言葉ではなく、唾を。


 ぺっと粘ついたそれが相手の頬に飛び散り、一瞬心が満足した。
 だが次の瞬間、何かが口の中に飛び込んできた。一直線に喉へと到達し、咽頭を押す。衝撃に目が瞬き、顎がみしっと悲鳴をあげた。


「――――ッ、ぅげぇ……! っほ……うえ、うぁ……っく」


 それはすぐに退いたが、競りあがってくるものを俺は抑えられず、その場に吐いた。
 心臓が驚きのあまりどくどくと脈打つ。
 まともに食事をしていなかったため、吐き戻すものは胃液ばかり。それでも鼻をつんっと刺激するには充分。その腐ったような匂いに誘われ、何度か身体を跳ねさせながら水を戻した。


 ぴちゃぁ……り。
 唾液と胃液と僅かな水とそれから血の味が口内いっぱいに広がる。


「う……ぅ……ぅうう」


 獣のように唸りながら切れない唾液を落としきる。
 歯の隙間から幾筋も滴る其れはなけなしのズボンとそして相手の靴を汚した。
 顔を持ち上げれば相手は指についた感触を確かめるように蠢かしていた。人差し指と親指を擦り合わせるだけの動作。相手の指がこの喉を突いたのだと知るには充分な動きだった。


「動物が噛み付いてきたら無理に剥がそうとはしては駄目なんだそうだよ。そのまま喉の奥に押し込んで、『やってはいけないこと』だと教え込む方がいいという話だ」


 にぃっと笑いながら愉しそうに言う。
 俺は生理的に浮いてきた涙を拭きたくて首を振る。だが散るには水分が足りなくて頬を伝うのみ。逆に振ったことにより脳が震え、頭痛が活性化した気すらする。


 惨めだ。
 唇を噛み締め、湧き上がる衝動に耐える。
 自分は今、惨めだ。
 伝う涙を止めることも出来ず、ただ見せぬよう顔を伏せるしか出来ないのだから。
 何も出来ず、ちっぽけな存在。
 気まぐれで生かされている動物以下のもの。


 なんて惨め。


「顔をあげて、その顔をよく見せてごらん。こんなに痛めつけられて可哀想に……」


 なんて可哀想。


「唇を開くだけでいい。私の問いかけに真実の言葉で答えるだけでいい」


 銀色の髪の毛。
 血の様に赤い瞳。
 白い肌に反するように黒い心。


 なんて、醜い。


「あの子が死んだなんて嘘だ。あの子が私を置いていなくなるなんて嘘だ。そんな悲しい事が本当だと考えるだけで私はこの胸が張り裂けそうになる……。そうは思わないかい?」


 優しい言葉で自らを繕って。
 綺麗な感情で自らを作って。


 だからいつも騙されそうになる。
 この人は誰よりも上手で、誰よりも欲求に素直で、誰よりも狂っていることを忘れそうになる。
 『父親』の面をしないで欲しい。
 『悲哀』の面をしないで欲しい。
 本当に辛いのはこの人じゃない。ましてや俺でもない。自由を奪われ続けたあの人のはずなのだ。


「ひぃ……――――」


 傷んだ喉を通るか細い呼吸。
 収縮した胃が筋肉を痛める。


「――――っくぅ……ぇえええ……! ふ、ぅう……ん、っふぅ……」


 ぼろぼろと零れ溢れる涙。
 唇はそれでも開かない。
 心はまだ相手に屈していないのだから当然だ。強気で応対するのはその証。強がっているんじゃない。身体で、心で、俺の全てで相手を拒否しているからだ。


 だからかわいそうじゃない。
 だからみじめじゃない。
 だからなくことなんてない。


―――― だけど俺は今、とても醜い。


「ああ……可哀想に。さあ、その目を見せておくれ。さっきも言っただろう? 今までに何度も何度も君に伝えてきた」


 揺らぐ心。
 揺らぐ身体。
 抱きしめられて拒否反応が出ているのに、それでも振りほどけない『惨めさ』。
 髪の毛を撫でられ、拒絶したいと思っているのに、それでも強く振れない『惨めさ』。


 部屋を仕切るラインの手前で控え待つ従者達がこちらを見てにやにや笑っている。
 掌の上で転がる俺を嘲笑っている。
 羞恥に頬が染まり、全身を捻る。だけど二本の腕は解放を許さない。肌に食い込むほどに込められた力はとても強く、まるで縋っているみたいだ。傷を抉られる様な強い刺激がして俺は思わず悲鳴をあげた。


 大人なのに子供のような人。
 皆知ってる。
 この人が強いこと。
 皆知ってる。
 この人が狂っていることくらい。


 涙に濡れた瞳の蒼色が、この人が求めた色じゃないと俺は知っていた。
 水に濡れた髪の黒色が、この人が求めた色じゃないと皆は知っていた。


「君が教えてくれるまで何度もくるよ。何度でも君を抱きしめにくるよ。何度でも君のその瞳を見に来るよ」


 耳を掠る低音。
 金縛りを起こした時みたいに全身が硬直した。


「ああ、そうだよ。何度でも君に言う。君がその唇で真実を語らぬ限り、君がその唇で真実を騙り続ける限り」


 くっくっくっと肩を震わせて哂っている。
 俺の惨めさを、俺の虚しさを、全て知った上で。


「<籠の中の鳥>を今度こそ逃がさぬように――――」


 瞬間、俺は口を大きく開き、牙を剥いた。
 首筋に喰らい付き、肉を引きちぎろうと力を込めた。


 だがその身体は予想通り剥がされる。
 飛び込んできた従者達に取り押さえられ、壁に叩きつけられた。痛みに傷みきった身体がずるっと力なく崩れる。だがやがて腕が引き攣り、鎖に支えられるかのように止まった。


 ぜぇぜぇと荒い息を吐き出しながら目の前の男を見やる。
 貫くほどの痛い視線を向ければ、従者達が警戒するように身を固めた。


「……殺しますか?」


 主人に一人の従者が問いかけた。
 傷を負わせたとなれば話はまた変わって来る。いっそのこと命を絶ってくれればいいと俺は密かに笑う。
 そうすれば手出し出来ない。
 あの人は此処以外の場所で幸せをつかむことができる。


「何を言うんだい。ほら、見てごらん。この可愛らしい顔を」


 心外だというように男は言った。
 首からは僅かに血が伝う。少しは傷害を加えることに成功したらしい。牙の端に引っかかる鉄の味をそっと舐める。強打した身体がその味に耐え切れず、またげほげほと咽た。


 胸の前で腕を組みながら男は俺を見下す。
 力の差を歴然と見せ付けるかのように。


「さあ、その死を恐れない瞳を良く見せておくれ。私は本当に君のような黒髪碧眼が好きなんだ」


 俺は今、惨めだった。
 何度でも心行くまでそう言う。
 俺は惨めだ。


 だけど俺は弱くなかった。
 俺の心は壊されるほど弱くはなかった。それが救いなのか、それとも不幸なのかは知らない。比較対象などないこの哀れさをどう表現すればいいのだろう。


 強さと強さがぶつかって生み出すのは病んだ精神。
 皆は知らない。
 俺がおかしいことなど。
 皆は知らない。
 俺がとっくの昔に狂ってしまったことなど。


 この世にいるのは『正常を演じ続けている子供達』だけだと誰もが知っていた。
 俺が真実を話せば喜んで彼はあの人を追いかけ、真実をつぐみ続ければこの人は楽しんで俺を甚振る。


 さあ。
 手掴みの狂気をあげよう。
 一握りの勇気に免じて。


 何も見ぬよう。
 何も話さぬよう。
 何も得ぬよう。
 そうすれば全てを閉ざした俺に痛いほどの狂愛を彼はくれるだろうから。


「俺は、純血種なんて大嫌いです」


 無理やり心の中に踏み込んで荒らす。
 そんな相手など、誰が好きになるものか。






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