カラオケで96点以上出さないと出られない部屋




 戯れに自分の曲を入れてみた。
 どうせ八十分もあるのだからと……正直な話、高をくくっていたのが悪かった。
 不意に私の前を過る手。置かれていたマイクを握ったのはベラ。何を、と口にする前に私は自分の身体を硬直させることとなる。


 たった一音。
 それを伸ばして乗せて――ああ、なんてこと! 彼は歌うのではなく「あ」の一音だけで旋律を作り出してしまった。喉から高らかに伸びていく旋律に全身が総毛立つ。
 全身から力が抜けるようにベラを凝視していた私を無情にも現実に引き戻したのは扉が開く音。
 ベラは「本物さまの手を煩わすなんて勿体ない。主催もご苦労様なこった」と皮肉の言葉を吐いて出て行ってしまった。


 だが私は暫く彼の声の余韻を楽しみたいとカラオケルームから出るのを自分の意思で止める。両耳に手を覆いかぶせて、鼓膜の震えを、全身の震えを愛する。
 君の声の旋律を逃したくないと私はその喉から伸びたメロディーを己の曲に妄想的に組み込んだ。


2019.08.28










PPPPPP




「ベラのピアノが聞こえる」


 ノーヴァはモニターピアノに添えていた手を止め、己の星までたどり着いた音に耳を澄ます。
 しかし音は距離の問題上完全に聞き取れるわけでなく、むしろ途切れ途切れの旋律。おかしいな、普段ならもっと聞こえてくるのにと首を傾げ、もう少し耳に入ってこないものかと片手を顔の横に添え集音してみる。
 だがふととある事実に気付いた。


「あ……PPPPPP(ピアニッシシシシモ)だ」


 音楽記号のP(ピアノ)の意味は「弱く」を意味する。
 Pが増えればより一層弱く……を意味するその単語が脳裏に浮かぶ。
 どちらかというと音を強く鳴らすf(フォルテ)の方が得意な彼にしては珍しいなと思わず口元が緩んでは自分もまた演奏を再開させる。
 PP。ピアニッシモ。
 イタリア語で最上級の意味を持つそれよりももっと弱く……優しく叩く音色。それは今誰のための演奏なの?


「狡いよねぇ……」


 届け届けと祈りのような優しい旋律はノーヴァの心にもやっとした音を鳴らす。
 あちらがPPPPPPならば、こちらはffffffか。
 心で鳴る爆音。膨れ面を一瞬だけしては息を吐いて旋律を真似てみる。


「私はやっぱりffffffの音がいいな」


 強く鍵盤を叩いて弾き鳴らして、彼の元へ。
 そうして届いた頃にはきっとそれはPPPPPP。
 同じリズムを刻んでいると知ったら彼はまた苦々しい顔を浮かべるのだろうなと思ったら、指は自然とfの列を連ねた。


2019.09.07










睡眠音楽



 彼の星を通りかかった際、岩の一つに身体を寄せている姿が見えた。
 耳に小型イヤホンを当てながら音楽を聴いている。
 すぅっと定期的な呼吸と静かな胸の上下の動きから彼が今眠っているのだと気付いた。
 腕は緩く組まれ、脚も軽く組んだ熟睡には難しいポーズでよく眠るなと思いながら私は出来るだけ気配を殺して近寄ってみた。


 彼はまだ気付かない。
 イヤホンをしているせいで耳の感覚が閉ざされているのだろうことは想像出来る。無防備なその姿に小さく息を漏らし、思わず目が細くなってしまう。
 どこまで寄ったら気付くかななどという興味さえ湧いてしまって、じりじりと身体を地面すれすれの距離で浮き上がらせながら近づいてみる。
 意外にも顔の傍に顔を寄せても反応が無い彼に逆に心配が浮いてしまったが、それほど深く眠れているという事は良い事なんだろう。
 ここまでリラックスして眠れている事から、今彼は一体何の音楽を聴いているのだろうかと興味が湧く。


 うずり、と産まれる好奇心。
 ここまで来たら後で怒られても構わないと結論付けてから、私は彼の左耳に己の右耳をそっと寄せる。


 ――流れてくる、ピアノ音。


 旋律は聞き覚えがあって、思わず目を見開いてから数度瞬きを繰り返す。
 聞き間違いでは無いかと疑って今度はもっと聞き取ろうと神経を集中させるが、答えは変わらない。
 その曲は先日自分が発表した新曲だったのだ。
 ばっと身体を外し、私は宇宙の空へと飛びあがる。これ以上彼の傍にいて安眠を妨げることは出来ない。してはいけない。
 ああ、でも星渡りをしている最中に微笑む事だけは許してほしい。嬉しいと心が感じる事だけは許してほしい。


 ――幸せだと君に想いを寄せることを赦してほしい。


 聴覚過敏故に中々眠れない君の安眠に役立っている私の音。
 決して心から嫌われていないのだとうぬぼれでもいいから、愚かだと君の口から発せられても良いから、そう思える事の幸せを噛みしめさせて。
 その時の私は多分本当に自分のことしか考えられていなかったんだろう。


 立ち去った後、盲人の彼がイヤホンの位置を調節するために手を動かした事すら気付かなかったのだから。


2019.09.14

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