■ 2・リリカ


 その少女は目が見えなかった。


「ねえ、リリカ。あたしね、貴方の顔が見てみたいな」


 ぺたぺたと両手を俺の顔にあてて骨格を探る。
 年の頃は本人曰く十七だと言う。俺は瞼を下ろしながら感触を楽しんだ。指先が唇や鼻先に触れるとくすぐったくて身震いしてしまう。
 瞼を開けば少女の虚ろな視線が絡みつくように身体をなぞる。
 彼女は俺の首元に手を下ろした。


 草木の茂る花畑で出逢った二人の男女。
 彼女は花冠を作って遊んでいた時に俺がやってきてうっかり声を掛けてしまったのがきっかけだ。
 こう書けばまるで恋物語の始まりかと勘違いしてしまいそうだが、実際はそんな優しいものじゃない。
 俺は喉の調子を整える。
 そして見えもしないのに笑顔を相手に向けて女性の声を出した。


「見えない方が良いかもしれないわ。あたしはそんなに綺麗な女じゃないから」


 完璧に繕った声。
 少女の手を掴み、頬ずりする。子供特有の肉の柔らかさが心地良い。俺は彼女の身体を引き寄せる。頭を撫でてやれば嬉しそうに彼女が綻ぶのが分かった。


「でもあたしはリリカの顔が見たいな。きっと凄く綺麗に成長していると思うもの」
「綺麗じゃないって言ってるのに」
「ううん、ぜぇーったい綺麗になっているに決まってるわ」
「はいはい。そういうことにしておきましょうね。――――ほらそろそろ帰らないと怒られるわよ」
「ぶー」
「最近また異端狩りとかで此処らへんも物騒なんだからね」
「じゃあ、また明日ね。数日は此処に居るんでしょう?」


 盲人用の杖を手にしながら彼女は立ち上がる。
 素直に歩き出した彼女を見送れば、急にしんみりとした感情が沸き起こってきた。自分の胸に手を当てて息を何度か吸って吐く。その度に女性のものではない平らな胸が静かに上下した。


 彼女と出逢ったのはつい数時間ほど前の話。
 その時、彼女は花冠を作っていた。付き添いもなく独りで木々に囲まれるように遊んでいた彼女に俺はうっかり「誰?」と問うてしまったのだ。
 本当にしまったと後悔した。
 彼女はその声を聞いて俺のことを「リリカ」と呼び始めたのだから。


 「リリカ」は彼女とあの日数年ぶりに会う約束をしていたという。
 見えない彼女に偶然とはいえ、『約束の日』に声をかけてしまったのは自分。
 そこから何故か運悪く「リリカ」に間違われてしまった、と言うわけだ。「違う」と何度いっても彼女は首を縦には振らなかった。
 両手を前に突き出し、俺の声を頼りにふらつきながらも寄ってくる姿は流石に突き放しにくい。仕方なく声を若干高くして女を装えばそれもまた「リリカ」に似ていたらしく、彼女の顔が安堵の表情を浮かべた。


「リリカじゃないって言ってるんですけどね」



+++++



 次の日、律儀にも俺はあの場所に行った。
 一度承諾したことは守らないと気がすまない自分の性格が少々憎い。今日はちゃんと話を聞いて誤解を解こうと思う。


 だが其処に居たのは少女ではなかった。
 其処に居たのは一人の老婆だった。俺の姿を見止めると、老婆は折れ曲がった身体を更に曲げるようにお辞儀をした。俺もつられて頭を下げる。
 去ることも出来ない俺はぎこちない笑みを浮かべながら老婆に寄った。


「兄さんは何をしに来たんだい?」
「……ちょっと女の子と此処で逢う約束を」
「そーかい、そーかい。偶然だねぇ……私も会う約束をしているんだよ」
「え、もしかして十七くらいの女の子ですか?」
「いんやぁー、私と同じ歳くらいだねぇ」


 老婆は杖に両手を重ね、天を見上げる。
 もしかして約束をした「リリカ」とは老婆のことだっただろうかと思ったのだが、そうではないらしい。同じ場所に老婆と少女が偶然にも別々に『誰か』と約束をした、ということだろう。
 場所は街からそう離れては居ないし、珍しくない話だ。


 俺は少女がやってくるのを何処で待とうかと辺りを見渡す。
 そんな俺を不思議そうな目で老婆が見てきた。


「私はねぇー、約束をしたんだよ。この場所で再会しようって」
「……はぁ」
「あの時は異端狩りといってねぇー……人間以外を殺すための戦をしていてねぇ。役立たずな私はどうしても一緒に行けなかった。何度泣いて一緒に行きたいと願っても、一緒に行けなかった」
「…………」


 しまったと、思った。
 老人が誰かに昔話を始めると長い時間を食うと知っていたからだ。此処で非情にも立ち去る性格ではない自分を恨む。昨日の少女といい、今日の老婆といい、どうも最近こういう風に絡まれることが多い気がする。
 俺はきりのいいところで話を終わらせようと笑顔を浮かべながら口を開く。
 だが次の瞬間それは閉じられた。


「あの日以来、リリカは来なくなったんだ」


 矛盾の物語が開き始めるのを俺はその時確かに感じていた。


「次の日も逢おうって言ったのに、リリカは一度目の約束の日に逢いに来てくれたっきりだ……折角私も見える目を手に入れてやっと一緒に行けるようになったというのにねぇ……」


 頭痛がする。
 じわりじわりと誰かの物語の中に自分が組み込まれていく気配が迫ってくる。嫌な汗が滲み出してくるのがわかってごくんっと唾を飲む。心臓がどくどくと強く脈打つ度に体温が上がっている気がした。


 老婆は思い出に浸るように瞼を閉じた。
 どこか客観的にそれらを眺めている自分自身がいることに内心驚きつつ、俺はぎゅっと掌を握りこむ。
 それからふぅっと長い息を吐き出すと老婆に言った。


「死んだんじゃないですか」
「かもしれないねぇ」
「話を聞いている限り、どう考えても数年のレベルじゃないでしょう? 戦をしてたということは亡くなられた可能性の方が高いでしょう。ならこの場所にそのリリカって人はきっと二度と現れないと思いますよ。いつまでも思い出に浸ってないで現実を見ては如何ですか?」
「確かに、その通りかもしれないねぇ……だけどね、兄さんや」


 老婆は持ち上げていた顔を俺の方に向ける。
 正面から見ると更に皺の刻み込まれ具合が分かって俺は思わず息を詰まらせた。老婆は重そうな皮をぎゅいっと上げて笑い、そして言う。


「誰も私にそんなこと言ってくれやしなかったんだ」


 だから待つのだと老婆は言った。
 だから諦めきれないのだと老婆は言った。
 俺はその場に居れなくて、勢い良く踵を返して駆け出す。何故走り出したのか、その意味すら分からないまま。


 森を抜ける頃、足を止めた。
 ぜぇぜぇ吐き出す息が熱くて気持ち悪い。浮き出す汗と、何故か涙が零れた。
 疲れのためかがくがくと足ががくがくと震えだす。両手を拳にしてだんっと膝の上に叩き落した後、無理矢理街の方へと歩き出した。


 「リリカ」は少女に逢いには来なかった。
 「リリカ」との約束は守られなかった。
 「リリカ」の顔を老婆は知らない。


―― 話を聞いている限り、どう考えても数年のレベルじゃないでしょう?

―― 戦をしてたということは亡くなられた可能性の方が高いでしょう。

―― ならこの場所にそのリリカって人はきっと二度と現れないと思いますよ。

―― いつまでも思い出に浸ってないで現実を見ては如何ですか?


 まるで鏡のように跳ね返ってきた自分の言葉。
 偶然にも仕組んでしまった優しさと悲しさを自身に置き換えて実体験してしまったのかのように。


 盲目の少女は「リリカ」の顔を知らない。
 老婆は「リリカ」の不在を信じない。
 だからこそ彼女達は約束を信じて待ち続けるだろう。


 ああ、なんて幸せな約束。
 ああ、それはなんて幸せな二人。
 ああ、それはなんてしあわせな――――。


 脱力した身体を引き摺りながら俺は雑貨店に入った。店主の「いらっしゃい」という声を聞きながら俺は目的のものを手に掴む。
 活字印刷された新聞を手にした俺は、『今ある現実』を確認するために日付に視線を向けた。


「…………ああ、世界はいつだって非情だ」



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