■ 3・レイチェル


 そいつの存在に気が付いたのは俺がその街に来て三日ほど経った頃だった。


 いつも誰かに見られているような変な視線を感じ始めたのがきっかけ。
 宿にいる時は流石にそうでもないのだが、逆を言えば宿を一歩でも出れば異常なまでに視線を感じるのだ。
 最初は気のせいなのだろうと思った。もしかして自分が奇異的な存在であることが誰かに知れてしまったのだろうかとも思った。
 だがその視線はただ纏わり付いてくるだけで何かを仕掛けてくる様子はない。


 いい加減苛立ち始めた俺はそいつをいぶり出そうと人気のない路地裏へと足を運ぶ。
 当然そいつも俺の後を追うようにやってきた――――ところで足を引っ掛けてやった。喜劇でも見ているかのように見事に頭からゴミ箱の中にこけたそいつを見下しながら近付く。


 文句の一つでも言ってやろうと息を吸う。
 だが飛び上がるように起き上がったそいつに俺は身動きできなくなった。


「レイチェルッ!!」
「ッ、ちょ、汚いっ!!」
「おお、レイチェル! 僕の女神っ!」
「誰がですか、人違いですよ! 離しなさいッ!!」
「もう離さないよ、レイチェルっ! んーっ……」
「ぎゃあああ、口を突き出してこないで下さいー!!」


 力強く抱きとめられた身体を解こうと必死にもがく。
 相手はその間にもキスを迫ってくる。気持ち悪くて顔を引くが、身体を押さえ込まれていれば逃げるのもたかが知れている。心の中で一瞬だけ謝った後、俺は思いっきり足を振り上げ、世の男性の急所である股間を蹴り上げた。


 がんっといい音がする。
 緩んだ腕を乱暴に解きながら俺はその腕から抜け出た。内股になりながら股間を押さえるそいつの姿をまじまじと見る。
 かなり苦痛を浮かべてはいるが二十代後半の成人男性というところだ。
 俺は転がってしまった荷物を拾い上げた後、さっさと立ち去ろうと背を向ける、が。


「待ってくれ、レイチェル!」
「人違いです」
「レイチェル、お願いだ。僕の話を聞いてくれッ!」
「人違いですってば」
「レイチェーッル!! 僕の天使、やっと見つけたんだッ。もう二度と何処にも行かせな――――」
「  い  っ  そ  の  事  天  国  に  行  け  」


 再び襲い掛かってきた相手の腰に容赦なく蹴りを入れる。
 おおう! だか ぎゃああ! だか声になっていない悲鳴をあげながら再度ゴミ箱に顔を突っ込んだ。そのまま男は気絶してしまったらしく、追いかけては来ない。もし騒ぎを聞きつけて守備隊が来ても、自分は正当防衛だと言っておこう。


 抱きつかれた時に腐食臭が付いてしまっていないだろうかと袖をすんすん臭う。
 微妙に嫌な香りがしたので宿に帰ったら即効服を洗おうと決意した。



+++++



「まあ僕の話を聞いておくれよ。レイチェル」
「――――なんでさり気なく此処に居るんですか」


 宿で朝食を取っていた時、そいつは再び現れた。
 俺の目の前の席を当然だというように陣取りながらにこにこと満面の笑顔を浮かべる。折角美味しかった朝食のサンドウィッチの味が一気に落ちたような気すらした。
 一緒に食事する人間次第でこんなにも味が変わるものかと半ば感心してしまう。


「レイチェル、そうカッカしないで。朝から怒ってばかりいては折角の美人の顔が台無しだ」
「手前が怒らせているんですが」
「おお、僕のせい!? それは済まない。では今日の飯は奢ろう。ヘイ、マスターッ! 僕にもレイチェルと同じサンドウィッチを!」
「……ああ、殴りたい」


 指を鳴らしてマスターを呼ぶテンションの高い男を前に、俺はテーブルの上に額を付けるようにうつ伏す。
 わなわなと震える肩をどうにか落ち着かせようと深呼吸した。こんな馬鹿と付き合っていては神経が持たない。さっさと宿を出てしまおうと席を立つ。
 サンドウィッチを残してしまったことに申し訳なさを感じた。


 だが去ろうとした俺の手を誰かが掴む。
 じとっと睨むようにその手をなぞっていけば、当然そいつが居た。


「やっと見つけたんだ」
「離しなさい。気色悪い」
「レイチェルをやっと見つけたんだ、そう簡単に離すと思うかい?」
「レイチェルじゃありませんってば。俺は――」
「おお! レイチェル! 君が言いたいことは分かっている、僕に逢えて嬉しいとその目が語っているからねッ! さあ、喜びの熱いベーゼをしようじゃないか!!」
「人の話を聞けぇええ!!!」


 この間と同じように抱きついてきそうな男の顎を蹴り飛ばす。
 顎の骨が折れるんじゃないかと思うくらい力を入れてみたが、何故か上手く避けられてしまった。ちぃっと舌打ちをしつつ体勢を立て直して再度蹴りを入れるが、今度はごつごつとした手で思いっきり止められてしまった。


「レイチェルは<理想の女性>と言う意味を持つ」
「はぁ?」
「僕は脚本家をやっているんだが、僕の脚本のヒロインのイメージに君がぴったりなのだよっ。その人間っぽくない冷えた造形、どことなく作り物ちっくな面立ち、冷たい口調ッ! ああ、何もかも理想だよ、レイチェル!!」
「……はぁ」
「と、言うわけで僕はもう君をはーなーさーなーいー!!」
「ぎゃあああ!! 俺は男ですってば、女性じゃないですってば!!」
「大丈夫! 僕は男でもばっちりいけるからねッ!!」
「うわ、一番付き合いたくないタイプー!!」


 何故こんなにもテンションの高い男に好かれるのだろう。
 鳥肌を立てながら俺はぶんぶんと手を振り回す。まだ人の居ない朝の時間でよかったと本気で思う。
 逃げれば追いかけてくる。
 宿に迷惑を掛けているんだと思うと胃がきりきり痛む気がした。


 そろそろ本気で男を殴り殺してしまおうかと手を振り上げる。
 ハートを飛ばしながら迫ってくる相手の顔に一発お見舞いしてやろうと拳を作ったその時。


「はい、本屋のぼんくら息子。サンドウィッチお待ち」


 どんっと白い皿が置かれた。
 持って来たのは宿を取った時に部屋を案内してくれたマスターの娘だ。彼女は見るからに青筋を立てつつ、こちらを見る。笑顔を忘れないその心根に有る意味拍手を贈ろう。


「お客さん。こんなヤツに付き合うことはないよ。こいつはねえ、いつも好みのタイプの人を見つけては『レイチェル』(理想の女性)と叫んでナンパしてるだけなんだからさ」
「……は?」
「ここいらの連中はあまりにもナンパされる『レイチェル』が可哀想で<子羊>って意味で呼んでるくらいなんだよ。こいつは確かに脚本家を気取っちゃ居るがまだまともに舞台を取れたことがないくらい低能さ」
「こら、そこの娘! いくら幼馴染でも言ってもいいことと悪いことがあるだろう!」
「幼馴染だから言うんだよ、このぼんくらっ!」


 顔を突き合わせて怒鳴りあう二人。
 俺はチャンスだと思い、出来るだけ音を立てない様その場を離れた。カウンターの方に足を運び、ようやっと全身の力を抜く。
 ぐたぁと脱力する俺をマスターが氷水を出してくれた。有難うと礼を言って其れを飲み干す。乾いた喉を潤してくれるそれはとても美味しかった。


 マスターは空になったグラスを俺から受け取ると、きゅっきゅっとグラスを布で拭いた。
 まだ二人の声は響いてくる。
 本当に誰も居なくてよかった。


「娘の言ってることは本当さぁー。あいつに構うことはねえよ、お客さん。うっとおしかったら、思いっきり殴って逃げちまっても誰も文句はいわねえ」
「もう殴りました」
「じゃあ、蹴飛ばすとかさぁー」
「蹴りましたし、ゴミ箱の中に頭を突っ込ませてもあれなんですけどね」
「お客さん相当気に入られたんだねぇー。で、いつ発つんだい?」
「もう発ちます。今なら逃げれそうですし」
「ところで巻き込まれついでに一つ教えておいてやるよ」
「何をです?」


 どうかしましたかと軽く首をかしげながら次の言葉を待っていると、マスターがなにやらもにぃっと不自然なまでに作った笑みを俺に向けた。
 彼はそのまま片手をそっと顔の前に持ち上げ、直角に添えた。


「俺の娘の名はなぁ、レイチェルっつーんだ」
「は?」
「ま、そういうことだからよ。色々巻き込んで済まんな、俺からも謝罪しとくよ」


 ああ、なんて幸せな脚本。
 ああ、それはなんて幸せな二人。
 ああ、それはなんてしあわせな――――。


 まだ喧嘩をする声は途絶えない。
 俺は柱に手を掛け、がくっと頭を下げた。


「もう、やだ」



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