■ 9・ラーグ


―― 貴方は<ラーグみず>のような人ね。


 彼女がそう言ったのは、どれくらい昔の話だっただろうか。
 俺は木々の隙間から零れてくる光を浴びながら片手を空にかざす。さらに閉ざされた空との距離を計りながら、思い出を再度繰り返す。


「ラーグ! ラーグ、どこ?」


 草木が踏まれ、へしゃげる音がする。
 甘い声を惜しみなく振りまきながら駆けてきたのは幼い娘。スカートを足に絡ませながら懸命に走ってくる姿を確認した後俺はゆっくり身体を起こした。
 両手を広げると、娘はとても嬉しそうに寄ってくる。
 腕の中に飛び込んでくるのに時間はそう掛からなかった。


「みつけた!」


 俺の腕の中で満面の笑みを浮かべる娘の長い髪の色は金。その瞳は深い碧。
 顔を寄せてそのまぶたの上に一度キスを零すと、首に回されていた腕に力が篭る。擦り寄ってくる娘の頭を撫でれば心地よさそうな声が聞こえた。
 俺は娘の身体を離し、木屑を払いながら立つ。
 ぽんっと頭の上に手を置き、屈み込みながら彼女の顔を覗き込む。


「ラーグじゃなくて、お父さんって言いなさいと言っているでしょう?」
「いやよ。お父さんだなんてにあわない」
「似合う似合わないの問題じゃなくてですね……」
「ラーグはラーグでいいの。昔は『お父さん』って呼んだら嫌そうな顔をしていたくせに、いまさらだわ」


 うふふっと赤い唇を持ち上げ、彼女は俺の腕を掴む。
 二人並んで歩いていくのは自分達の家。レンガ造りの家々が立ち並ぶ街へと足を運べば、見知った人達が声を掛けてくれる。手をあげて挨拶を交わせば、なぜか娘が頬を膨らませた。


「どうしました?」
「ラーグは『そとづら』がいいからイヤ」
「近所付き合いは世の中をうまく渡っていく一つの処世術ですよ」
「しってるわ」


 我が家に戻り、扉を閉める。
 鍵を確認している間に娘は奥へと消えてしまった。俺もまた追いかけるために廊下を進む。
 やがてたどり着くのは白の部屋。


「母さん、ただいま!」
「おかえりなさい。ラーグは見つけられた?」
「今日も同じところにいたわ。いつも急にいなくなるくせに同じ場所ばっかりにいるからかくれんぼの相手には向かないって感じかしら」
「あらあら……」


 母親に駆け寄る娘。
 娘の話を嬉しそうに聞く母親。
 俺はその間に入るために丸いすを手に歩んでいく。母親――いや、『妻』が俺を見る。
 彼女は俺を見て、ふわりと微笑んだ。


「おかえりなさい、あなた」



+++++



 彼女を抱いたのは娘の年齢よりも少し前。


「結婚して」


 彼女がそう言ったのはそれから二、三ヵ月後だった。
 路銀が少なくなり、蓄えを増やす意味で働いていた頃の話。彼女は自分が働いていた店の女の一人で、仕事に困っていた俺に声を掛けてくれた人だった。


 世の中、初対面の人に裏なく声を掛ける事なんて根っからの善人でない限りはないだろう。
 彼女に関しても例外ではなかった。つまり裏のあるお仕事――色売りの関係だったのだ。
 女性ではないと言うとやっぱり驚かれる。だが「男でもいいよ」といわれればそれはそれでこちらが困るわけで。


 結局のところ、俺は短期間でそれなりの金を、彼女は店の働き手を上に提供するという話で纏まった。


 彼女はとても水っぽい人だった。
 見た目的にも性格的にもそう。女性らしい色香は十分すぎるほど備えていたし、店の女達にも良く好かれていた。客もよく付いていたし、もしかしたら誰かに身請けされるではないかと言われていたくらいだ。


 客の中には変わった趣味の持ち主も居て、たまに俺の方にもお声が掛かる。
 だが、大抵の場合彼女が間に入ってお断り。
 金を積まれてもお断り。
 断固お断り。
 別に『そういうこと』には対して抵抗はないが、病気を移されでもしたら嫌だ。


 ほんの少しだけ長く居過ぎた街だった。
 ほんの少しだけ関わり過ぎてしまっただけなのだ。


「ねえ、寝た?」


 そう言いながらか弱く擦り寄ってくる、そんな彼女と夜を過ごしたのはどれくらい前だっただろうか。



+++++



―― と、言うか。


「あれは抱いたというよりも抱かれたって言う方が正しい気が……」
「若いって良いわねー」
「俺、もう若くないです」
「見た目ぴっちぴちの癖に。羨ましいわー。この、このっ」


 ぐりぐりぐり。
 ほうっと息を吐きながら彼女は俺の腰に拳を押し付ける。そんな彼女の手を掴み、そっと離す。ベットの上で上半身を起こしている彼女の肩に薄い上着を掛ける。


 あの日、結婚を申し出られてから今に至るまで、俺は彼女と生まれた娘と共に居る。
 仕事は変わらなかったが、それ以外はいたって普通の家族。
 父親がいて、母親がいて、子供が居て。
 仕事仲間はそんな俺達を微笑ましくみると同時に哀れみの目でよく見ていた。


 まあ、そうだろうと自分でも思う。
 同じ屋根の下、妻は旦那以外に抱かれるのを仕事とし、旦那はむしろそれを斡旋するなんて。
 だけど俺達はそれで上手くいってた。
 だから自分達の間には何も問題はなかったのだ。


「話があるんです」
「ん? なーにかな?」
「そろそろこの街を出ようと思うのです」
「あ、やっぱり?」


 あっさりと彼女は返答する。
 俺は肩を竦め、苦笑した。


「あなたが居なくなるようになってからそうなんじゃないかって思っててねー……そっか。やっぱり行っちゃうか」
「最初からそのために此処に来たので」
「あの子が生まれてこの街に足止めできる理由が出来たと思ったのになー」
「それは残念ですね」
「いいのよー、どうせラーグの子じゃないし」


 さらにあっさり。
 俺は苦笑が外せないでいた。大体の返答は予想していたとはいえ、まさか自分から言い出すとは思っていなかった。


「その顔じゃ知ってたわね。嫌だわー、察しのいい男って」
「でも貴方は俺を選んだでしょ」
「そうよね。ラーグはあたしが拾ってきた最高にいいパートナーだわ」


 おいでおいでと手招きされる。
 顔を寄せれば、がばっと手が伸び、そのまま胸に頭を抱きとめられてしまった。


「あの子もあなたに似て察しが良いんだもの。そろそろ限界かしらね……」


 力いっぱい頭を撫でられて呼吸が苦しくなる。
 彼女の胸はそれなりに大きい。男に揉まれ続けたからでかくなったのよーと昔言っていたっけ。
 ぷはっと水上に出た魚のように息を吐く。
 何度か呼吸を繰り返していると、彼女は両手をひざの上に置いた。


「結局、結婚してくれなかったわね」
「すみません」
「でも『父親』にはなってくれたわね」
「貴方が本当に欲しかったのは『子供の父親』なんだと、思いまして」
「嫌な男ね」
「すみません」


 俺が謝ると彼女は窓のほうへ顔を向け、目と口を閉じた。
 俺もまた彼女達と過ごした数年間を思い出し、感傷に浸る。薬指に嵌められた鉄の輪を指先で弄り、そのまま外す。彼女が手を出しそれを受けとろうとする。
 だがその前に俺は意地悪い笑顔を浮かべた。


「指輪、貰っていきますね」


 あーんと口を開き、そのまま放り込む。
 ごくんっと喉が鳴るのを彼女は呆れた顔で見ていた。



+++++



 まだ街が完全に目を覚まさない頃、俺は街外れの小道へと出た。
 娘にはお別れも言っていない。
 妻にも顔を見せていない。
 俺は数年ぶりに触れる外の空気に身を震わせた。


 ああ、なんて幸せな幻想。
 ああ、それはなんて幸せな家族。
 ああ、それはなんてしあわせな――――。


「あー、懐が寒い……」


 善人ではない俺は、それでも善人を気取う。
 所詮は自由など金次第で買えるのだと嘲笑いながら、いずれ記憶から消え去る彼女達の幸せを祈ってた。



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